ナット節

明治のころに北海道を中心に盛んに歌われていて、千島、樺太の缶詰工場で働く女工さんたちに歌われた労作唄。労作唄とは日本の民謡のなかで労働と結びついて歌われる唄で、共同作業を行う時や、全体の統一をはかるためだったり、単調な作業の時の気分転換のために歌われた唄のことをいいます。
「ナット節」の元唄になっているのが「カムチャッカ小唄」ですが、「ナット節」も「缶詰所節」や「女工節」、「真室川音頭」の元唄だと言われています。
労作唄として唄われていたのが、お座敷唄となって、合いの手で「ナット ナット!」と囃すことから「ナット節」と呼ばれるようになったそうです。
ナット節でも、1965年に作られた杵渕一郎さん作詞、初代浜田喜一さんの編曲による「道南ナット節」が特に親しまれています。
が、今回は「道南ナット節」にはふれず、「ナット節」の紹介です。

裏の畑に 蕎麦 播いて
そのまた隣に 粟 播いて
そのまた隣に 黍 播いて アリャ
そば通ってあわなきゃ きびわるい(ハー ナット ナット)

会いたい見たいが 籠の鳥
もしもこの身が 飛べるなら
番屋の屋根に 巣をつくり アリャ
焦がれ鳴く声 聞かせたい(ハー ナット ナット)

一輪咲いても 花は花
一夜の嵐に 散るはイヤ
たとえ草履の 鼻緒でも アリャ
切れて気持ちの よいものか(ハー ナット ナット)

一度咲く花 二度までも
咲かせたいとは 思えども
月にむら雲 花に風 アリャ
浮世はままに ならぬもの(ハー ナット ナット)

というのがナット節の歌詞です。
最初の「蕎麦」「粟」「黍」を「そば通ってあわなきゃ きびわるい」にあてはめることができるんですよね。なかなかにおもしろい歌詞ですね。
労作唄とのことですが、歌詞を見てみると、片思いの唄なのかなと私は思いました。

仕事中にたまたま
傍を通ったのに会っていかないなんて
そんなことできない

できることならまた会いたい。それができなくてもせめて一目でも見たい。
だけどここから動くことができない
もしも会いに行くことができたなら
傍に寄り添って 好きだと囁いて甘えていたい。

遊びの関係で一度限りで捨てられたくない。
こんな私でもさよならされると傷つくのよ
良い気はしないんだから。当たり前でしょ?

一生を共にと思うけど
つらいことが多いこの世の中
人の心というのはどうにも思い通りにはならないものだなぁ・・・。

こんな解釈はどうですか?ほんとはもっと深いんでしょうが、あくまで私の受け取り方です。ナット節に限らず、けして長くはない歌詞の中にもイメージは広がりますよね。やっぱりそこが民謡のいいとこなのでしょうね。