月別アーカイブ: 2013年10月

「艪漕ぎ唄」

「江差沖揚げ音頭」で少し紹介した船漕ぎ音頭にあたる部分と同様の、“オスコー”というフレーズが登場します。

 

【艪漕ぎ唄 佐々木基晴】

オスコエー エー
オスコエー エンヤーサー
オスコー エー オスコエーンヤー

沖でカモメが啼くその時は
浜は大量の花が咲く
オスコエー オスコエー
オスコエー エンヤーサー
エスコエー エー
オスコエーンヤー

押せや 押せ押せ
二丁櫓(にちょうろ)で押せや
押せば港が 近くなる
オスコエー エー
オスコエー エアンヤーサー
オスコエー エー
オスコエーンヤー

泣いてくれるな出船の時は
泣けば艪櫂(ろかじ)が手がつかぬ
オスコエー エー
オスコエー エアンヤーサー
オスコエー エー
オスコエーンヤー

「江差沖揚げ音頭」(esashi okiage onndo)

北海道指定無形文化財とされ、ヤン衆と呼ばれた人々に唄われ、ニシン漁場労働の姿を忠実に素朴に伝承しています。

ヤン衆…出稼ぎの男性労働者のことで、「ヤン」はアイヌ語で「向こうの陸地」(つまり本州)を指す。俗っぽいニュアンスがあるため、地元の人は彼らを「若い衆」と呼ぶことの方が多かったようです。

唄は〈出船、網起こし、切り声、ニシン沖揚げ、子たたき、帰り船〉というストーリー構成になっています。

大量の時には2日3日も不眠不休で作業を行う必要もあり、男だけの船の上では女性や子どもの前では言えない様な文句を唄うことで、笑いを誘い、眠気を覚まし、疲れきった身体に生気を取り戻すのです。

歌詞は何百種類もあり、半分は海の男の心意気と大量祈願、家族や思いを寄せる異性への思慕。

もう半分は所謂下ネタ。

危険も伴う漁、過酷な労働…ふと出てしまう疲れを吹き飛ばす為には、きっと笑いも必要だったでしょう。

すべてが若い衆たちのエネルギーそのものであり、海の男の“男らしさ”ともいえるのかしれません。

 

【江差沖揚げ音頭】

出船(船漕ぎ音頭)
「オースコー」「ホーラーオー」などの掛け声とともに船出します。

網起こし(網起こし音頭)1:50辺り〜
ニシンが大量の時には、網を起こすことが非常に困難となり、切り声で士気を奮い立たします。

ニシンを網に入れ過ぎると重さで網が破れてしまう為、見極めも重要になってきます。

沖揚げ(沖揚げ音頭)6:15当り〜
ソーラン節としてよく知られた部分です。

網起こしによって積み込まれたニシンを陸揚げするため、汲み船を横付けにし、タモ網で汲み上げる時に唄います。

子たたき(子たたき音頭)8:50当り〜
陸揚げを終えた網には沢山の数の子が付着しています。それを(竹などの道具で)たたき落とす際に唄います。

この作業は、陸(おか)の男衆と女性労働者が一緒になって大量を喜び、次の漁への期待も込め唄われます。

別名「いやさか音頭」と呼ばれ、「いやさか」とは「ますます栄えること」を意味します。

帰り船11:05当り〜

「北海荷方節」(hokkai nikata bushi)

唄の源流は新潟県新発田市で生まれた「松阪」という唄で、「新潟松阪」が訛った結果「にかた節」呼ぶようになり、瞽女(こぜ)と呼ばれる目の不自由な旅芸人の十八番(おはこ)でもあったこの曲は、諸国で歌われ、秋田県など東北地方にも「にかた節」として存在しています。

北海道では小樽(おたる)で主に歌われ、酒の席へ招かれた瞽女(こぜ)さんたちが三味線の曲弾きと合わせて披露したと言われています。

“曲弾き”とは、三味線や琴等を特殊な技巧で弾いたり、非常に速く弾くことで、紹介する動画は音楽だけですが、そのたたずまいは圧巻です。

 

【北海荷方節】(音楽のみ)

荷方 寺町 花売り婆さま
花は売らずに 油売る

荷方うきみに 真があらば
丸い玉子も 角となる

丸い玉子も 切りよで四角
ものは言いよで 角が立つ

「江差追分」(esashi oiwake)

http://esashi-oiwake.com(江差追分会ホームページ)

日本を代表する民謡の一つであり、北海道指定無形民族文化財にも指定されています。

江差(えさし)町は、ニシンを中心とする交易で栄えた港町で、かつては「江差の5月は江戸にもない」と言われる程の賑わいでした。ですが、そこで働く人々は、自ら望んで来た者ばかりではありませんでした。

出稼ぎに出るしか食べてゆく道がなかった人、郷里に帰っても働き口がない人…

飢餓の年には、仕事を求めて蝦夷地に大勢の人が流れ込みました。

しかし、蝦夷地の暮らしも楽なものではなく、仕事には危険も伴い、不漁の年も当然あります。

冬の寒さの厳しさ、激しい労働…繁栄を支えた人々の苦境がこの唄にも唄い込まれています。

①【江差追分 唄:佐々木基晴】

当時、神威岬(かむいみさき)より北に女性が立ち入ることは禁止されており、奥さん、あるいは恋人達は、男一人を送り出さなければなりませんでした。

そもそも、「追分」(おいわけ)とは、分かれ道を意味し、「(後を)追う」ことが出来たらという、願いも込められており、追分節には人々の惜別の想いも感じられます。

 

(前唄)
波は磯辺に 寄せては返す ヤンサノエ
沖はしけだよ 船頭さん
今宵一夜で 話がつきぬネ
明日の出船を のばしゃんせ
(本唄)
泣いたとて どうせ行く人
やらねばならぬ
せめて波風 おだやかに
(後唄)
泣くなといわれりゃ なおせきあげてネ
泣かずにおらりょか 浜千鳥

②【江差追分(前唄・本歌・後歌)浜田喜一(初代)】

親しい者と別れ、かもめの鳴く声を聞きながら、船旅を経て遂に蝦夷地が見え来ます。

故郷を離れ、新天地への期待や不安を感じながら、「ここで生きていくしかない」のだと北海道へ降り立ったのでしょう。

 

(前唄)
国を離れて 蝦夷地が島に ヤンサノエ
幾夜寝覚(いくよねざ)めの波枕
朝な夕なに聞こゆるものはネー
友呼ぶ鴎(かもめ)と波の音
(本唄)
鴎の鳴く音に ふと目を覚まし
あれが蝦夷地の山かいな
(後唄)
月をかすめて 千鳥が鳴けばネー
波もむせぶか 蝦夷の海

「道南口説」(dounann kudoki)

江戸から明治、(北海道南端にあたる)渡島(おしま)・桧山(ひやま)沿岸ではニシン漁で賑わい、越後(現在の新潟)から北海道へ渡ってきた瞽女(こぜ)と呼ばれる目の不自由な旅芸人達に唄い継がれた物語風の口説き節。

瞽女(こぜ)さん達は、僅かなお金をもらいながら流浪の生活を送り、行く先々で見聞きした風景・人情話を各地の地名を織り交ぜ唄い、人々の情けを受け生計をたてていたと言われています。

出だしの「オイヤーサーエー」は「ごめんください」という意味で、「新保広大寺くずし」という唄と同じ様式です。

「新保広大寺くずし」は瞽女(こぜ)さん達にとっては慣れ親しんだ故郷の唄であり、彼女たちの新しい土地での期待と故郷への哀愁が、同じ様に入植してきた人々の共感をよび各地で広がり、残された歌詞は40種類以上あると言われています。

①【道南口説】

オイヤサーエ

オイヤ
私ゃ道産子の荒浜育ち 
声が悪いのは親譲りだよ

節が悪いのは師匠無い故に

一つ歌いましょう はばかりながら

オイヤ
上でゆうなら矢越(やごし)の岬よ
下でゆうなら恵山(えさん)のお山
登り一里で下りも一里
恵山お山の権現様(ごんげんさま)よ

オイヤ
わずか下れば
湯茶屋(ゆじゃや)がござる
草鞋(わらじ)腰に付け椴法華(とどほけ)通りゃ
恋の根田内(ねたない)情けの古武井(こぶい)
思いかけたるあの尻手内(しりしない)

オイヤ
沖に見えるはありゃ武井(ぶい)の島
武井の島には鮫穴ござる
とろりとろりと浜中通りゃ
沖のカモメに千鳥ヶ浜(ちどりがはま)よ

オイヤ
戸井の岬を左にかわし
汐の名を取って汐首の浜
顔を隠して釜谷(かまや)をすぎりゃ
小安気もやく皆谷地山(みなやじやま)よ

今夜の泊まりは
磯谷(いそや)の温泉にひとつかり

②【道南口説きに乗せて道南の海を走破中】

オイヤサーエ

オイヤ
主と別れた山の上の茶屋に

鴎(かもめ)鳴く鳴く臥牛のお山

甲斐性無いゆえ
弁天様に 
振られ振られて函館発てば

オイヤ

着いた所が亀田の村で

右に行こうか左に行こうか

ままよ七重浜久根別(なないはまくねべつ)過ぎて

行けば情けの上磯(かみいそ)ござる

オイヤ
沖の大船白波わける
わたしゃもへじの道踏みわけて
もったもったと岬をゆけば
ここは知られた当別(とべつ)の浜

オイヤ
金の住川 千軒岳よ
越えてくだれば福島見える
酔うて過ぎても白ふの浜ヨー
情けよし岡 泊って根先

今夜の泊りは城下の茶屋で泊るサーエ

オイヤ
足をのばして峠にかかる
上り一里で下りも一里

浜に下れば白神の村

ついに見えたよ 松前城下

今夜の泊まりは城下の茶屋でござるサエ