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北海道の民謡歌手

北海道には、昔から伝わる“民謡”がたくさんあります。皆さんご存知の“ソーラン節”“道南盆唄”など色々・・・。
今回はそんな民謡を歌う“民謡歌手”に注目しました。

「伊藤多喜雄」(いとうたきお)さんは、日本の民謡歌手としてはもちろん、作曲や音楽プロデューサーとしても活躍しています。
今では、娘の「安曇野めぐ留」さんも歌手として頑張っていますよ~。

1950年(昭和25年)に北海道の苫小牧市で誕生した伊藤多喜雄さん。両親は漁師をしていて、兄弟はなんと12人も・・・!!
今では考えられないような“大家族”ですよね^^!!

一番末っ子だった伊藤さんは、小さい頃から両親が歌っていた“津軽民謡”に興味を持っていて、その歌声は地元でも評判な程だったんだそう。民謡に目覚めたのは、両親のおかげなのかもしれませんが、生まれながらに持った才能があったのでしょうね^^

その後というもの、苫小牧市立凌雲中学校を卒業し、16歳の若さで民謡歌手を志望して上京しました。2年後に行われた“NHK民謡オーディション”に見事合格し、一躍“民謡界のホープ”として周りから将来を期待されるようになりました。

大好きな趣味があっても、それで稼ぐ事は、なかなかできない人が多い中、こんなにも活躍できるなんて本当に凄いですよね~!!
1976年(昭和52年)に行われた、日本民謡協会「民謡民舞全国大会」においては、3年連続優勝する程・・・!!その時には、民謡協会から“教授免許の認定”を頂きました。

メジャーデビューも約束されていましたが、自身の“歌手としてのスタイル”に悩むことがあり、一時期は不遇の時代を過ごす事と・・・(^^;しかしその後、海外へと渡り、各地のライブハウスで民謡歌手として出演すると、外国人観客からも大好評で自信を取り戻し、1982年(昭和57年)に帰国します。

翌年1983年には、同世代の若き“三味線奏者尺八奏者”と共に「TAKiO BAND」を結成。伊藤さんの艶ある高音と、和楽器に電子楽器をミックスさせたダイナミックな演奏が、民謡を現代的にアレンジした感じになって、見事!独自もスタイルを確立させることが出来ました。

その反面、保守的だった民謡界から、冷ややかな目で見られることもありましたが、永六輔、小室さんなどから絶賛され、幅広い世代から支持されることとなるのです。
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それからというもの、見事CDデビューを果たし“ジャズピアニスト”や“パーカッショニスト”ら異なるジャンルの奏者とコラボをしたり、皆さんご存知の「紅白歌合戦」にも、2回出場するなど大活躍することとなります。

1993年には、稚内市立稚内南中学校の生徒のために「ソーラン節」をプロデュースしたりと、みんなから愛される“民謡歌手”として民謡の世界に花を咲かせる伊藤さん。

「民謡なんてあんまり聞いたことがない・・・」という人も、是非この機会に耳を傾けてみて下さいね^^

ナット節

明治のころに北海道を中心に盛んに歌われていて、千島、樺太の缶詰工場で働く女工さんたちに歌われた労作唄。労作唄とは日本の民謡のなかで労働と結びついて歌われる唄で、共同作業を行う時や、全体の統一をはかるためだったり、単調な作業の時の気分転換のために歌われた唄のことをいいます。
「ナット節」の元唄になっているのが「カムチャッカ小唄」ですが、「ナット節」も「缶詰所節」や「女工節」、「真室川音頭」の元唄だと言われています。
労作唄として唄われていたのが、お座敷唄となって、合いの手で「ナット ナット!」と囃すことから「ナット節」と呼ばれるようになったそうです。
ナット節でも、1965年に作られた杵渕一郎さん作詞、初代浜田喜一さんの編曲による「道南ナット節」が特に親しまれています。
が、今回は「道南ナット節」にはふれず、「ナット節」の紹介です。

裏の畑に 蕎麦 播いて
そのまた隣に 粟 播いて
そのまた隣に 黍 播いて アリャ
そば通ってあわなきゃ きびわるい(ハー ナット ナット)

会いたい見たいが 籠の鳥
もしもこの身が 飛べるなら
番屋の屋根に 巣をつくり アリャ
焦がれ鳴く声 聞かせたい(ハー ナット ナット)

一輪咲いても 花は花
一夜の嵐に 散るはイヤ
たとえ草履の 鼻緒でも アリャ
切れて気持ちの よいものか(ハー ナット ナット)

一度咲く花 二度までも
咲かせたいとは 思えども
月にむら雲 花に風 アリャ
浮世はままに ならぬもの(ハー ナット ナット)

というのがナット節の歌詞です。
最初の「蕎麦」「粟」「黍」を「そば通ってあわなきゃ きびわるい」にあてはめることができるんですよね。なかなかにおもしろい歌詞ですね。
労作唄とのことですが、歌詞を見てみると、片思いの唄なのかなと私は思いました。

仕事中にたまたま
傍を通ったのに会っていかないなんて
そんなことできない

できることならまた会いたい。それができなくてもせめて一目でも見たい。
だけどここから動くことができない
もしも会いに行くことができたなら
傍に寄り添って 好きだと囁いて甘えていたい。

遊びの関係で一度限りで捨てられたくない。
こんな私でもさよならされると傷つくのよ
良い気はしないんだから。当たり前でしょ?

一生を共にと思うけど
つらいことが多いこの世の中
人の心というのはどうにも思い通りにはならないものだなぁ・・・。

こんな解釈はどうですか?ほんとはもっと深いんでしょうが、あくまで私の受け取り方です。ナット節に限らず、けして長くはない歌詞の中にもイメージは広がりますよね。やっぱりそこが民謡のいいとこなのでしょうね。

ソーラン節の歴史

“ソーラン節”といえば、「ヤーレン、ソーランソーラン。。。♪」と、学生たちが踊りながら掛け声を発したりして運動会など行事の際に披露するもの、というイメージが強くありませんか?
昔あった“学園ドラマ”でも披露されていたので、懐かしい気がします。

そして、皆さん“ソーラン節”がいつ・なぜ誕生したのか知らない方がほとんどではないでしょうか!!
実はこの唄、魚の“ニシン”を獲るところから、卵(数の子)を棒で打ち落す、過酷な労働に耐えるための“掛け声”のようなものだったんだそう。

“ソーラン節”発祥の地“後志・積丹半島~余市郡にかけての地域”は、江戸時代から昭和初期にかけて“ニシン漁”で賑わっていました。
地元の人たちだけではなく、毎年春になると、北海道各地や東北地方からニシンをたくさん獲って、金稼ぎをしようと“ヤン衆”と呼ばれる集団が次々と押し寄せるほど!!彼らは“鰊御殿”と呼ばれる宿舎のようなところで生活していて、ニシンの大群がやってきた!という連絡を耳にすると、網をもって船を出していたんだそうです。

大量のニシンは浜に揚げられ、一部を干物にする他は、すべて大きな釜で炊いて“魚油”を抽出し、残ったかすを“鰊粕”にして加工されていました。この“鰊粕”は、西日本へ送られ、ミカンや藍などの高級な肥料として好評だったそうですよ!

ソーラン節・別名「鰊場作業唄」は、元々“青森県野辺地町”で知られていた「荷揚げ木遣り唄」が変化していき、誕生した唄。

「鰊場作業唄」は4つの構成からできていて、まず、ニシン漁へ出かけていく際に「オーシコー、エンヤーァエー 、オーシコー」
という掛け声で船を漕ぐ。次に、ニシンが入っている網を持ち上げる際に「ヤーセィ、ヤサホイ」と声を合わせて持ち上げ、“枠網”と呼ばれるものの中にニシンを移し替える。

移し終えたニシンを、大きなタモ網で「ソーラン、ソーラン」と汲み出し、そして最後、網の中に産み付けられている卵を「アリャリャン コリャリャン ヨーイトナー」と連呼しながら竹の棒を使い、打ち落として一連の作業が終わります。

この作業を行うのは、少し暖かさを感じられる春。ですが、北海道の春といえばまだまだ肌寒く、海の上での作業は過酷なんです。それを乗り切るのにも、この唄が必要不可欠だったんですね♪
黙々と作業するよりも、皆で声を合わせるだけで元気になれますし、力が湧いてくる感じがしますよね!
たまに即興で歌を熱唱し、その場を和ませたりもしていたんだそうですよ^^

“ソーラン節”には、このような隠れた歴史があったんですね!!

鱈釣り節(たらつりぶし)

北海道五大民謡のひとつである「鱈釣り(たらつり)節」は、昭和33年に古平(ふるびら)でうまれました。

タラ漁に出た漁師たちが船の上で唄われる唄で、古平の漁師・大島豊吉氏と田村栄蔵氏がつくったそうです。ベースとなったのは函館東部につたわる「たらつり口説節(くどきぶし)」だといわれています。

古平では「たらつり節」は日本海の海の幸“たら”にちなんだ町の誇りとして、いまや「たらつり節全国大会」が開かれるようになり、全国各地から多くののど自慢が集まっています。また開催に合わせて誕生した「みたら、やったら、くったらフェスティバル」とあいまって観光客を呼び込んでいます。

 

オエヤーサーエー
(ハァキタコラサッサ)
上でいうなら 神威の岬よ
次に美国に 丸山岬
下でいうなら オタモイ様よ
登り一丁に 降りも一丁
(ハァキタコラサッサ)
ハァー都合あわせて 二丁の山
おりとおりとに 参詣をいたし
参詣いたした その折柄に
おさごまいては 柏手たたく

(ハァキタコラサッサ)
わしの願いを 叶うたならば
(ハァキタコラサッサ)

オエヤーサーエー
さあさ船頭さんに 支度はよいか
めしをたべたら 帆を巻き上げて
今朝の嵐に せみ元詰めて
表若い衆に りょうふを頼む
ハァー洞の間若い衆に 帆足を頼む
ともの船頭さんに かじ前頼む
かじをだまして きりきりねじる
指して行くのは 雄冬の沖よ
とろりとろりと 厚苫前通れば

 

歌詞にある『オタモイ様』とはオタモイという地名にあるお地蔵様のことのようです。小樽市近郊のオタモイ海岸には古くからオタモイ地蔵と呼ばれるお地蔵様が祭られています。

『おさご』とは散米と書き、神仏や墓所に詣でたときや、お祓いを行うときにまき散らすお米のことです。船の安全を願って米と塩を混ぜて海にまいたりもします。

『わしの願いを 叶うたならば』歌詞としては妙な落ちがあり違和感が残りますが、もしかしたら『わしの願いを 叶うたならば』のあとに『~したい』など次の歌詞があったのかな、などと想像を膨らませられます。

『二丁の山』これは丁ではなく、町であろうと思われます。民謡では字の違いがよくあります。一町が10反とすれば、ひとつの町がはいる大きさです。上(かみ)の方向にカムイ岬、さらに下って美国、丸山岬、さらに下る(しもに)オタモイ様の地蔵ってところでしょうか。峠をこえるのは難所であったのだろうなどと、歌詞からいろいろ想像するのが民謡の面白さかもしれません。

南中ソーラン

『ソーラン節』の冒頭で、「YOSAKOIソーラン」というものを少しだけ紹介しましたが、“踊れるソーラン節”の原点はこの「南中ソーラン」。

いわば“現代のソーラン節”についてもう少し紹介したいと思います。

“南中”というのは、稚内に実在する稚内市立稚内南中学校のこと。
学校の公式HPのトップページにも、「南中ソーラン」の画像がすぐに目につき、シンボリックな存在として確立しています。

今から30年程前、まだ「学級崩壊」なんて言葉もない頃ですが、学校内では暴力やいじめなどが横行していたそうです。
ある程度の落ち着きを見せ始めた頃から、生徒達によるソーラン節の演舞が始まりました。

『第1回文活では「学校再生の土台ができたことを確認」し、生徒に大きな自信を育てることができました。第2回目は学校がすっかり落ち着いた中で、「南中建設の方向を確かめあう」ものでした。』
(稚内市立稚内南中学校「南中ソーラン」より抜粋)
※文活…文化活動発表会という「郷土芸能の伝承」のための学校行事

なるほど、明確な目的意識のもと、ソーラン節は学校の中で大きな役割を担っていたのです。
そうした流れの中で、ある先生がアップテンポにアレンジされた「ソーラン節」と出会ったことで、また新しい誕生を迎えます。
それまでの、正調のソーラン節(元祖ソーラン節)とは違うため、先生達は一から振り付けを考えだし、生徒の意見も合わせながら作り上げ「新・ソーラン節」を生み出したのです。正しく、これが現在「南中ソーラン」と呼ばれるようになったもの。

この呼び名は、平成4年・5年に出場した「民謡民舞大賞全国大会」で輝かしい成績を納めた事で、全国的に注目を集めたことで自然と呼ばれるようになったのだとか。

これら一連の学校の変化は、「ソーラン節で学校が再生した」という展開の方がドラマチックな印象になるせいか、勘違いをされる事もあるそうですが、事実がどちらだとしても、当時の先生達、保護者、地域の人たちは、きっと大変な苦労があったことでしょう。
そして、再生しかかった学校をさらにまとめあげる一因になった「ソーラン節」という存在。
かつて、ニシン漁の際に歌われていた歌と大人達の姿は、子ども達の心にも確実に何かを感じさせたのでしょう。

今では、日本全国の小中高等学校にも広がりはしましたが、「やっぱり本家は違う」なんて言われる事もあるようです。
これは、勝手な想像ですが、子ども達の「自分たちは変わったんだ!」という意志表示が多くの人の琴線に触れ、評価された事で生まれる新たな誇りがそうさせている様な気がします。
ソーラン節の力強い調べにのせて、これからも代々受け継がれていくといいですね。

「北海タント節」(hokkai tannto bushi)

元は炭坑で働く人々によって歌われた労働歌で、「北海炭坑節」が変化したもの。
“タント”、“あいこのじょうさく”、“そのわけだんよ”などのフレーズは、「津軽タント節」「秋田タント節」「山形タント節」にも見ることができ、この唄にも北海道の入植の歴史を感じることが出来る。

①http://youtu.be/fDce9_j9eWk
②http://youtu.be/XEgzsuNSAyE

ハアー 一つ日の本北海道に
生きるこの身の 有り難や 有り難や
蝦夷はよいとこ 野も山も
昇る朝日に うろこ波
黄金白銀 タントタント
あいこのじょうさく
そんわけだんよ

ハアー 二つ二人の 共稼ぎなら
荒い波風 いとやせぬ いとやせぬ
逢いに北見の鴻の舞(こうのまい)
拓北原野(たくほくげんや)の 真ん中も
共に手を取り タントタント
あいこのじょうさく
そのわけだんよ

ハアー 三つ港や 入船出船(いりふねでふね)
あいの連絡 宝船 宝船
花の函館 夜知らぬ
なぞは手宮の 古代文字
思案顔して タントタント
あいこのじょうさく

そのわけだんよ
(動画ではここで終わり)
ハアー 四つ夜明けの 鐘鳴り渡る
都札幌 人通り
遠い流れの 石狩川に
可愛い鈴蘭 ういて来る
秋は秋味 タントタント
あいこのじょうさく
そのわけだんよ

ハアー 十に豊栄 お国の宝庫
拓け山から 港から
日本はせまいと 言うけれど
見せたい我等の 北海道
海の幸山の幸 タントタント
あいこのじょうさく
そのわけだんよ

「磯浜盆唄」(isohama bonnuta)

江差(えさし)と積丹半島(しゃこたんはんとう)の中間辺りに位置する寿都岬(すっつみさき)の人々などによって盆踊り唄として歌われた唄。
唄の源流は青森の民謡で、入植した人々によって北海道に持ち込まれますが、一時は忘れられることになります。
昭和40年頃になって、寿都岬出身の女性が記憶していたことから再びこの唄は復活しました。

http://youtu.be/exvQRs6VpSo
コレサヨーホエ (アードシタドシタ)
わたしゃ音頭とって踊らせるから
夜明けがらすの渡るまでとは
ヤーレンコレワイノセー
(ヤッチャマカサイサイヤッケドッコイショーササヨーオーイートーナー)

注:動画では飛びます
 コレサヨーホエ(アードシタドシタ)
 磯谷踊りの音頭とる声は
 一里きこえて二里ひびくとは
  
 ヤーレンコレワイノセー
(ヤッチャマカサイサイヤッケドッコイショーササヨーオーイートーナー)

コレサヨーホエ (アードシタドシタ)
磯谷よいとこ一度はおいで
海が呼んでる招いているとは
ヤーレンコレワイノセー
(ヤッチャマカサイサイヤッケドッコイショーササヨーオーイートーナー)

コレサヨーホエ(アードシタドシタ)
寿都岬(すっつみさき)に灯台あれど
恋の闇路は照らしゃせぬとは

ヤーレンコレワイノセー
(ヤッチャマカサイサイヤッケドッコイショーササヨーオーイートーナー)

コレサヨーホエ(アードシタドシタ)
あなた百までわしゃ九十九まで
共に白髪が生えるまでとは
ヤーレンコレワイノセー
(ヤッチャマカサイサイヤッケドッコイショーササヨーオーイートーナー)

北海盆唄

イントロに聞き覚えのある人も多いはず。
お盆の時期になると、北海道各地で盆踊りの際に使われています。
そのルーツは新潟県北蒲原(きたかんばら)郡の盆踊りで、その地域から北海道へ入植した人々によって持ち込まれました。
その多くが、一旗揚げるべく北海道にやってきたものの、生活は楽にならず、今更故郷へも帰れない…
帰りたいけど帰れないとなると余計に帰りたさが募るばかり。
そんな気持ちを紛らわすため、人々は故郷の方を見つめながら故郷の唄を歌い、踊る様になったと言われています。
切ないエピソードですが、だからこそ多くの人の心を捉え、現在でも受け継がれているのでしょう。

ハアー 北海名物 [アー ドーシタドシタ]
数々コラ あれどヨー [アー ソレカラドシタ]
おらがナ おらが国(ほっかいどう)の コーリャ
ソレサナー 盆踊りヨー
[アー エンヤーコラヤ ア ドッコイジャンジャンコーラヤ]

ハァー そよぐ夜風に[アー ドーシタドシタ]
誘いのコリャ 太鼓ヨー[アー ソレカラドシタ]
いつかナー いつか手を振るコーリャ
ヤレサナー 浴衣がけヨー

ハアー 唄え囃(はや)せよ[アー ドーシタドシタ]
叩けよコラ 太鼓ヨー[アー ソレカラドシタ]
月のナー 月の世界にコーリャ
ソレサナー 届くまでヨー
[アー エンヤーコラヤ ア ドッコイジャンジャンコーラヤ]

ハァー 踊り揃うて[アー ドーシタドシタ]
輪になるコリャ 頃はヨー[アー ソレカラドシタ]
月もナー 月も浮かれてコーリャ
ヤレサナー 丸くなるヨー

[アー エンヤーコラヤ ア ドッコイジャンジャンコーラヤ]

ハアー 浜は大量で[アー ドーシタドシタ]
砂利までコラ 光るヨー[アー ソレカラドシタ]
あねこナー あねこ年ごろ コーリャ
ソレサナー 肌光るヨー
[アー エンヤーコラヤ ア ドッコイジャンジャンコーラヤ]

ハアー 五里六里も[ハア ドーシタドシタ]
山坂コラ 越えてヨー[ハア ソレカラドシタ]
逢いにナー 逢いに来たのに コーリャ
ソレサナー 帰さりょかヨー
[エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャンコラヤ]

ハアー 主がうたえば[ハア ドーシタドシタ]
踊りもコラ しまるヨー[ハア ソレカラドーシタドシタ]
やぐらナー やぐら太鼓の コーリャ
ソレサナー 音(ね)もはずむヨー
[エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャンコラヤ]

ハアー 盆が来たのに[ハア ドーシタドシタ]
踊らぬコラ 物はヨー[ハア ドーシタドシタ]
木仏ナー 木仏金仏 コーリャ
ソレサナー 石仏ヨー
[エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャンコラヤ]

 

北海大漁節

意外にも鰊漁に関する唄には大漁節のような唄がなく、この唄は昭和25年頃に北海道出身の二人の民謡家により作成されました。
群馬県の「八木節」と北海道の「ソーラン節」の囃子言葉の部分を巧みに取り入れ、「北海大漁節」と名付けられます。

http://youtu.be/VfRPpzyNBik

ハアー 春は海からよ景気があがるよネ
(チョイサ)
いかにさけますチョイ
ヤーレンソーランソーラン鰊船(にしんぶね)よ
(ヤーレンソーランソーラン鰊船よ)

ハアー 大漁大漁だよ踊りが弾むよネ
ばばもあねこもチョイ
ヤーレンソーランソーランにぎやかによ
(ヤーレンソーランソーランにぎやかによ)

ハア- かかよ喜べよ何買ってやろかよ
ことしゃ鰊でチョイ
ヤーレンソーランソーラン浜大漁だヨ
(ヤーレンソーラン ソーラン浜大漁だヨ)

※動画と歌詞が違います
ハアー 漁場の育ちでよ働きものによネ
娘やりたいやチョイ
ヤーレンソーランソーラン弁当そえてよ
(ヤーレンソーランソーラン弁当そえてよ)